水でできた身体に水を注ぐとき日々とはたまに光る知恵の輪
佐々木遥(早稲田短歌会)(「花とループ」/同人誌『ぬばたま創刊号』より)
人によって異なるだろうが僕は一首評を書くとき、その歌について膨らますよりも掘り下げることを意識する。その歌を目にしたときに感じた衝動の理由を探し、それを魅力として提示できればと思う。
今回の掲出歌は1996年生まれ同人誌「ぬばたま」から。この歌を初めて見たときに理由の分からない衝動を受けた。すごくいい歌だと思い、そしてそのよさの理由を突き詰めたくなる。それがゆえに自分が所属する九大短歌会の歌会詠草集にしれっとこの歌を混ぜたりもした(九大短歌会の歌会では制作者の権限で詠草集に歌を付け足し、評をするという試みを行っている。おもしろいし、いろんな歌に接することができるのでおすすめだ)。
毎度の事ながら前置きが長い。掲出歌の話をしよう。この歌はひとつづきの歌なのだが、「水でできた身体に水を注ぐ」「日々とはたまに光る知恵の輪」という二つのパーツから成っている。話の都合上一つずつのパーツを紐解いていこう。
まずは前半。確かに人間の身体の70%は水でできており、この歌はその身体にさらに「水を注ぐ」という動作に焦点を当てている。ここで注目したいのは「注ぐ」という動詞の選択だ。注ぐとは基本的に動作を「する」ものと「される」ものが異なる動詞である。可能性としては主体が誰かに水を飲ませている(注ぐ、なので上からの可能性が高い)か、主体が水を飲んでいるのだけど、その行為を行う自身を別物のように捉えているか。この一首のなかに特定できる要素はないが、僕は後者を推したい。
えんかん【円環】ループ。自分もほぼ水でそれでもおもう水の循環。
(「この世の睫毛と光の邂逅」/『早稲田短歌47号』より)
このように、生活の中の水と自身の身体を流れる見えない水の存在の対比のようなものを作者の歌に垣間見るからかもしれない。さらに「注ぐ」という動詞にはその動作の構図のせいか、対象への慈しみのようなニュアンスも孕んでいるように思う。水でできていながら水を必要とする身体を、客観視しつつもどこか暖かみを持って接する。具体的な景をぼかす、という技法を巧みに利用した上の句だ。
そして後半。まず知恵の輪は日々の比喩であると考えられる。この歌において知恵の輪とは「解くべきもの」の象徴なのではないだろうか。人間はそれぞれ解決しなければならない何かを持っていて、それを解くことが日々である。さらにいえば、解く方法論が分からないまま挑まねばならないというイメージも知恵の輪が内包している。しかもこの知恵の輪はたまに光る。知恵の輪の主な目的は外すことであり、それがたまにキラッと光ったからといってなんということもない。この「光る」が持つ意味については上の句と併せて考えたい。
この歌を構成する二つのパーツは「とき」という語で繋がっている。上の句が動作的であることも踏まえると、「水でできた身体に水を注ぐ」ときに「日々とはたまに光る知恵の輪」であるという認識が生まれた、ないしは注ぐ間は実感する、と考えられる。とすると先ほど述べた知恵の輪が光ることについて一つの解釈が生まれる。この歌の二つのパーツに共通するのは普遍的かつ永続的なものに対して、水を注ぐ、知恵の輪が光るなどのイレギュラーな動作が加わることだろう。そしてそれは、先述した「注ぐ」ことの慈愛を考えると少しだけ前向きなものとして捉えられる。「解かなければならない知恵の輪」である日々が少し光ることは、生きる上でのちょっとした喜びのようなものなのかもしれない。そして身体に注いだ水は目には見えなくとも身体の中を循環する。知恵の輪を解くときの輝きも自分の気づかないところで巡っていくのだろうか。
この歌のすごいところは、ここまで深く絡まり合っていながらモチーフひとつひとつが清廉なイメージで統一されている点だ。かつ表現的にも主体に縛られずおおきく読者を包み込む。頑張って掘り下げる、よりは深く透明な海にゆっくり潜ってゆくような印象を受けた。
石井大成
6/2追記 文章中に訂正がございます。 佐々木遥様のお名前が「佐々木遙」と表記されていました。 また、早稲田短歌47号「この世の睫毛と光の邂逅」で引用した歌について、「おもう」が漢字表記になっておりました。 お詫びして訂正いたします。