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temae-miso 3月

駆け寄って戸が開いたら正座して天界の落語を話し出す

        青松輝(Q短歌会)(「予告編」/ネットプリント『第三滑走路 4号』より)

ネットプリント「毎月歌壇」の2019年1月号に掲載された

わいは猿やプロゴルファー猿や わいは猿やないプロゴルファー猿やない

                                                                    (田村囲)

という歌に選者の伊舎堂仁が「『あ』から書いていっても『ま』までは来ちゃうし、全部『あ』で埋めても長い叫びくらいになってしまうのが三十一文字ですから、たぶん何かを書いて事態を進めないって難しいんです」という評をしていてなるほどと思った。短歌を読んで「何も受け取らない」というのはとても難しい。いや、正確に言うと「テクストをありのまま受け取る」ことが難しい、だろうか。短歌として提示された時点で、大げさに言えば「何かがあるだろう」という色眼鏡で作品を見てしまうからだ。読者は各々の経験上、そうしたほうがよい読書体験ができることを知ってるし、一時期話題になった「基本的歌権」の話にも通じるところがあるんだろう。最近聴いた公演でとある歌人が「みんなにわかってほしい、という気持ちで歌を作る人が多いように思うけど、僕は『お前なんかにわかってたまるか』という気持ちで作る」というようなことを言っていて、要は共感や読者による介入を拒むことで作品や個人の固有性を保つみたいな短歌のあり方があるのは確かだ。

  結局最後まで前置きが長くなってしまった。これまで1年間学生歌人の一首評をしていたわけだが、実は11回しかやっていない。1回足りない。最後の1回で誰の歌について書くかは、実は1ヶ月前には決めていた。ただこの人の歌を論じるのはとても難しくて、苦戦して、今に至る。でも(歌壇のためにも、いち歌人としても)絶対に向き合うべきな気がしているので、なんとか筆を進めてみようと思う。

 Q短歌会、青松輝。その歌論や活動を見ていると、いま歌壇のなかで(学生)歌人がすべきことを最も考え、動いているのが彼だと思う。僕は彼のそうした部分を非常に尊敬しているので、散文(「第三滑走路 5号」にエッセイも掲載されている)から伺える彼の思想を論に混ぜたくなる。だがそこをぐっとこらえて、彼の作品に焦点を絞りたい。ここで冒頭の話に戻るのだが、彼の歌は読者との「共有」をとことんさせない点において非常に異質だと思うのだ。オリジナリティのある世界観や語彙、ポエジーによって介入を「拒む」のではなく、平易で淡白な言葉や言い回し、世界を作りながらあらゆる手段で読者から「逃げる」。読者が歌を自らに引き寄せようとする手からするりと逃げていく。

いつまでも忘れないよと抱き合って僕ら手の中には抹茶塩

星のない夜空を静かに飛んでくるラティオスがいて青く光った

                       (「ワープを学ぶにあたって」/『第三滑走路 2号』より)

  青松が読者の手をすり抜ける技巧のひとつが、特殊なモチーフの挿入によって歌の広がりを急速に閉じる点である。1首目。結句の途中までのテンプレ的な叙情、そして最後の5音で挿入される抹茶塩。音の流れや言い回し的にはあくまで自然に、物質の異質さのみが現れる造りが巧い。抹茶塩は置いておくとして、それ以前の提示が、その叙情が「空っぽ」であることに注目したい。何を注いでもよい、既製品のような器。だから読者は急に抹茶塩を出されると、その急な世界の特定にどうしてよいかわからない。しかも抹茶塩は共感しようにもできない。まるで「面白い」という共通目的を外した大喜利だ(いや、抹茶塩は面白いのだけど)。2首目。上の句の大きな景に突如現れるラティオス。伝説のポケモン(だろう)。こちらも上の句の叙情は非常にお題的で、そこにラティオスが提示される。ここで言及しておきたいのは、ラティオスが決して意外すぎないことだ。なぜなら、ラティオスは飛ぶ。1首目の抹茶塩もサイズ的に「なくはない」し、手→汗→塩みたいな連想も繋がっている。青松の歌は読者の共有を振り切ることに特化しており、意外性そのものを魅せるものではないと思う。2首目で、ラティオスが登場して「青く光った」と世界を順接的に維持していくことからもそれが読み取れる。むしろ振り切ることそのものを目的にしているような、そんな気さえするのだ。引きつけて、シャットアウト。やり方は本当に多様だが、青松の歌による読者への向き合い方はそこに集約するのではないか。

ドリームランドという遊園地が昔あって、今は限りなく廃墟に近い

                                     (「テーブル」/『第三滑走路 5号』より)

  青松の歌を読むたび、僕たち読者はとことんポエジーを見つける生き物だなあと思う。例えば上の一文を短歌として読むか、散文として読むかで、それこそ感じる叙情の大きさが異なるからだ。この歌、「今は限りなく/廃墟に近い」と定型に近く読めることもあり読点の前後が上の句下の句に分けて読める。つまり読点の間は上下の切れ目によって補えるのだ。それ以降に続く内容の意外性のなさからも伺えるのだが、僕にはこの読点が短歌の意図的な散文化のように思える。「短歌だから発生しうる」テクストの叙情を排除する動きがこの歌に見えるのだ。

このように、青松の歌の読者の移入や叙情を散文のレベルまでフラットに戻す、その技法を挙げればキリがない。ではこれらの目的、というか効用はなんなのだろうか。読者が余計な力を抜くことで純粋なテキストと向き合えるのか。そうして読者がよいと思った歌こそ、真に伝わった歌なのだろうか。これ以降は青松の作歌観に踏み込むので言及は避ける。ただひとつ思ったのは

そういうの一番きらい 終わるのに永遠だって哲学ぶって

                           (「VS松永・VS世界」/『Q短歌会機関紙創刊号』より)

  読者の叙情センサーの無効化、それを連作単位で行ったとき、ふいに出される上のような直情的な歌。そんな歌にハッとするのは事実だろう。

  とにかく、僕は青松輝の歌を読むとあまりの無味さに戸惑うのだ(ただ単に受容体が備わってないのかもしれないけれど)。ただ、掲出歌を読んだとき、なんだか不思議な高揚感があった。青松の歌は主体が不在であることが多い。それは歌に誰の介在も許さない場合もあるが、この歌はむしろ万人に開かれているように思える。上の句の動作が人を選ばないからだろう。なんだか、読者すべてが「天界の落語」に導かれたような、そんな疑いようのなさがあった。天界の落語=生きることやその中の発話の象徴、みたいな読みに嵌めることもできるが、青松輝の歌として見たとき、そういうテキストの意味を超えた読みはできなかった。読者としての無力化の先に、こんな一体化体験が得られることはひとつの効用かもしれない。

  長々と論じてきたが、いち読者を全読者に拡張することは危険だし、そういう意味では僕のこの評は水泡に帰すかもしれない。ただ、「短歌」という名義がテクストに与えうる負荷に、我々はもっと慎重になるべきだろう。

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