標的をはるか昔に失って月という眩しい不発弾
丸田洋渡(山梨学生短歌会)(「月と銃口」/『第三滑走路 2号』より)
読者が歌にどの程度まで干渉すべきか、というのは永遠の課題であると思う。おそらくこの問題に正解はないし、だからこそ短歌を読むことは面白く、歌会という営みが成功するのだろう。一方あまり注目されないが、それと全くおなじ問題が作り手側にも言えるのではないか。すなわち「読者をどこまで歌に入り込ませるか」。この問いにも定まった答えはなく、むしろ作者のスタンスによって異なるだろう。
「第三滑走路」は青松輝(Q短歌会)、丸田洋渡(山梨学生短歌会)、森慎太郎(Q短歌会)によるユニットで、今回の掲出歌は2018年10月31日に発行されたネットプリント「第三滑走路 2号」から。
この月の歌のなかでの圧倒的な存在感はなんだろう。ひとつは月というモチーフの特殊さかもしれない。月は、物質としてもまたイメージとしても多くの読者に平等な距離を保っている。誰しもが遠くからそれを見る存在であり、そこに伴う怪しさ、神々しさ、寂しさ、大きさなど、ある程度共有可能なイメージを色濃くもつ。現金な言い方をするのであれば、そこに感情が投影されていれば、景としての読みのぶれはある程度少なくなるだろう。そして掲出歌においてはその月に「不発弾」という比喩が与えられている。危うい魅力をもった喩だ。この結句の瞬間、月が危険を湛えた大きなものへと変貌する。さらには月の触れられなさも相まって絶望的とも言えるような(空に不発弾が浮いているのだから)無力感が生まれ、不思議にもそれが歌に説得力を生んでいる。この歌が巧みであるのは、月を見るという構図に読者を巻き込んだ点だろう。この歌は、基本的に月=不発弾を提示する、という体裁を保っている(なぜ体裁であるのかはのちほど)。言い換えれば主体が影を潜めていて、先述した月の共有しやすさ、「眩しい」「不発弾」の語のインパクトなどもあり、読者はこの不発弾でもある月と真っ向から向き合うことになる。
上の句はそんな月=不発弾という喩の根拠としてある。のだが、この「標的」がなんであるのかなどから読みのストーリーを展開させることに対しては慎重でありたい。上の句のぼやかし方に対してアンバランスなほどに下の句の月が存在をもっているからだ。いま見えている月が眩しく不発弾のような危うさを湛えていた。そういった主体の驚きが先にあって、「不発弾なのだから、この月は標的を失ったものだ。おそらくはるか昔に」という、上の句は後付けの理由に過ぎないような、そんな構成である。この点で、この歌は説得の体をした「自意識」の歌であると思う。
「月と銃口」は12首から成る連作なのだが、とにかく自意識が短歌という詩型を零れるその寸前の、表面張力のような存在感をもつ歌が目を惹く。
日陰と木陰 ここ一帯は濁流にかつて全壊したと教わる
遠くから見れば愛とは冷ややかなものだ枢(くるる)の枢(とまら)と枢(とぼそ)
(「月と銃口」より)
一首目。過去に災害に見舞われた場所と(おそらくその場にある)陰。壊滅した地域にも自然は陰を作る、というような無常観。あるいは過去と現在の対比による復興。そういったある種固定的な読みをあえて日陰と木陰を分けたことによって踏みとどまらせる。木陰とは大きく見れば日陰の一部であり、つまりは木陰を日陰から独立させる意図があるのかもしれない。だがしかし、それが歌の主眼に関わっているわけではなさそうだ。2首目。枢(くるる)とは開き戸の開閉のために用いられる心棒のことで枢(とまら)と枢(とぼそ)はその部品である。これらをすべて1つの漢字で書くこと、それ自体は確かに面白い。だがこの面白みが歌の真意であるかというと少し違う気がする。「愛が冷ややかなものである」という意思の肯定として描かれているのは物質としての枢(くるる)・枢(とまら)・枢(とぼそ)ではないだろうか。漢字の読みの面白みが歌における自意識の隠れ蓑になっているのだ。
感情が短歌の器から零れていない、あるいは零さないようにバランスをとる。ゆえに丸田洋渡の歌からは感情を掴みきれないことが多い。しかし、何かが零れそうな、そのことだけは見え、だからこそ惹かれる。読者としては歌の中に整合性を見いだしたい。しかし感情が世間の認識と比較して未分化であったり、作者がそこに踏み込まれるのを拒んだとき、歌は作者と読者の駆け引きになり得る。そうなったときに妥協点を見つけるのではなく、未分化な感情をいかに魅せるかも1つの技術なのかもしれない。
石井大成