ゆきの甘さのあなたのささやきみたいには攫はれないけど手をつながうか
岐阜亮司(北海道大学短歌会)
(「あなたを攫ふ光芒」/『ネットプリントRe:短歌』より)
※連作は岐阜亮司・高橋 鳩による返歌形式の合作
先日歌人の先輩たちとご飯を食べていたとき、「やっぱり(歌の)評は歌のためにあるべきだよねー」みたいな話になり、「ですよねー」と大きくうなずいた。のだがあらためてこれまでの1首評を読み返してみると、掲出歌から短歌全体の話にシフトしている場合が多い。すこし反省。なので今回は初心にかえって、なるべく1首についてごりごり掘り下げていこうと思う。
今回の掲出歌は千原こはぎ企画のネットプリント「Re:短歌」より(2017年8月発行)。これは歌人がふたりひと組となり、チームとして8首連作を編むものという企画。「返歌」がテーマであり、ふたりの歌が交互に並ぶ形式になっている。掲出歌は岐阜亮司と高橋 鳩のペア連作「あなたを攫ふ光芒」の8首目である(高橋→岐阜の順で歌が並んでいた)。掲出歌の話をする前に、この歌の1首前の、高橋の歌を引用しておく。
窓辺にてあなたを攫ふ光芒になるゆめをみたてをとつてみて
(高橋 鳩)
夢とそれを根拠にした現実の行動。その溝を軽やかに跳び越える構図、景、文体。安心感のある爽やかさだと感じた。岐阜の歌はこの歌への返歌と捉えてよいだろう。しかしながら冒頭でも述べたとおり、しばらくはこの歌1首単体の話をしたい。
ということで1語目から。ゆき、おそらくは雪。この歌の中での使われ方を見て、意外と抽象性の高い物質なのだなあと思った。それはすぐ溶けるという雪自体の性質もあるだろうし、詩情との親和性もあるだろう。ことに「ゆき」とひらいた場合、その物質的な特徴よりも幻想性などのイメージが先に立つ。だからだろうか、「ゆきの甘さ」という甘さに対する比喩的に用いられたとき、「雪なのに甘いのか」という驚きはなくむしろ順接的なものとして連関を受け入れられた(少し濃いとすら感じた)。
そして「ゆきの甘さ」はさらに「あなたのささやき」への比喩となる。ささやきが雪の静けさを受けたものになるという巧みなつなぎ。さらに二句目全体にア段が並ぶことでこの句が歌全体のなかで少し特別感を帯びる。テクニカルだ。テクニカルなのだけど、ささやき×甘いの想いの濃さがそれらのテクニックを超越している。この「あなた」は主体にとって恋人ないしは思い人であるという前提で読みをすすめてしまうが、そういった対象からの「ささやき」はイメージとしての「甘さ」を内包している。ここで「甘さ」を言葉にしてしまうことを、重複とするとらえ方もあるだろう。ただ僕は、その点にもう少し慎重でありたい。
たとえば「甘い」を言葉にしなかった場合、甘さのイメージは「ささやき」の語と歌の文脈を介して伝わる。言い換えれば読者による類推だ。つまりは読者が甘さのイメージを生み出したのであり、感情が読者の体験に近いものとして受容される(各々の思い人からのささやきがイメージされるかもしれない)。このことが短歌、ひいては詩がテクストを超えて人の感情を動かす力になっていると思うのだが、それはまた別の話。この歌の中で僕が言いたいのは「甘さ」を言葉にすることで、読者にはこの甘さが「主体の感情」として受容されるということだ。少し格好付けた言い方をすると、この感情に「他者の介在を許さない」という表現が、少なくともこの歌では成功しているように思える。このときの読者は主体の想いの濃さを、ただ黙って見る存在だ。しかし先述したゆきと甘さ、雪とささやきの連関により歌を美しく捉えることができる。それに加え、恋愛感情という一回り外の区分によっての共感も得られるかもしれない。個人的な経験則になってしまうが、「他者の感情の介在を許さない」表現はやはり相聞歌に多く見られる気がする(この感情には誰にも入ってきてほしくないという作者の無意識の発露だとすれば、僕はとてもうれしく思う)。
ここまでで上の句。この時点でだいぶ暑苦しいのだが、もうひと盛り上がりすることを許してほしい。「攫はれないけど」。掲出歌における「あなた」を1首前の高橋の歌の主体とするなら、「あなたのささやきみたいに攫われる」とは「1首前の歌みたいに(私が)攫われる」という読みになるだろう。返歌ならではの読みの確定ができる、楽しい部分だ。これまでの甘さと打って変わって冷静な返答も面白い。
そして結句へ。あなたを「てをとる」の一方向性からの「手をつなぐ」の双方向性。前の歌を踏まえると、たがいの結句どうしでも応答が成立している。歌単体で見るとこれまでの比喩の絡まり方や「攫はれない」のテンションを踏まえると結句はとてもシンプルに、力強く魅せられる。
僕がこの結句でとくによいと思ったのは「がうか」の旧仮名だ。相聞、特に想いが強い歌は読者の目を覆わせる危険性を常に孕んでいる。眩しすぎて直視できなかったり、甘すぎて胸やけを起こしたりするのだ(これは読者側の責任だと思うのだが、読者も人間なのでしょうがない)。しかしこの歌はこの結句のシンプルさを旧仮名の伸びやかさでプラスに変えている。現代短歌における旧仮名について思うことを書いていたら字数がとんでもないことになるので割愛するが、その持ち味の一つに歌の世界をゆっくり読ませることがある。作者の歌を引くなら
みんなにはもつとていねいにゐてほしいやさしいままできみにかちたい
(「めちやくちやに格好いい著者近影」/『北大短歌号外』より)
概念的な歌であるが、とてもゆっくり味わうことができる。前半の旧仮名が、可視的な旧仮名表記のない後半までその効果を保っている。僕たちが旧仮名を読むことにかける時間が、歌の世界に反映されていると思うのは僕だけだろうか。
ようやく語りたいことは語り尽くした。楽しい。でも字数無制限をいいことにやりたい放題してしまったので来月は通常通りに戻そう。そうしよう。
石井大成