虹彩が大きくなって近づいて、くる 五月の通学路が香る首
中山かれん (外大短歌会)(「すてきな暮らし号」/『外大短歌第7号』より)
先月の一首評でも書いた気がするのだが、俳句、短歌について話すとき(おもにPRをするとき)「瞬間や世界を切り取る」という言い方をよく目にする。こんなふうに書くと写真みたいだなと思う。たしかに人によって異なる見え方をしている世界を共有する、という側面において短歌は写真と同じなのかもしれない。ただ文芸の場合、お互いの世界の媒介として言葉がある。そしてその言葉の背景にはそれを紡ぐ人間のすべてがある。ゆえに作者のフィルターを通した世界を読者は体験することとなり、それが詩歌の多様性につながっていると思う。もうひとつ、短歌が写真と決定的に違う点を挙げるとするなら、それは「世界を完成させなくてもよい」という点だ。
今回の掲出歌は中山かれんの10首連作「すてきな暮らし号」から。この連作、とにかく先述した「世界にかける作者のフィルター」が様々な形で存分にあらわれている。分かりやすいかたちでは
スカイプに現れるとき青リンゴみたいな顔でおーいと言う人 (同連作)
スカイプという少し日常から離れた語、そして状況が青リンゴの少しずれた感じ(〝青い〟リンゴという名称なのだし)やクールさに呼応する、というのがこの歌の魅力だ。が、それよりも「青リンゴに見えたんかい」という驚きが先行する。比喩にフィルターがかかっている。他には
恋人はいるかと聞かれはいと言うときぬっと現れるさだまさし (同連作)
さだまさしの名曲「案山子」の一節を下敷きにした(と思われる)一首だ。「恋人はいるか」とだれかに聞かれた主体(その状況もよく分からないが)。「案山子」の歌詞の「~はいるか」が想起され、頭の中にさだまさしを出現させたのだろう。「ぬっ」がさだまさしにマッチしている。この場合は歌のうまみそのものに個性のフィルターがかかっているのだが、このさだまさしが結句にあるのがいい。さだまさしという強力なフレーズを引き立たせるだけでなく、主体がさだまさしの登場にそう驚いていないように思わせる。作者がフィルターに対し無自覚であると、歌に予想外の深みが生まれるという好例だろう。
ただ今回の掲出歌はこの連作の中でも異質だ。なんといっても歌の中で世界が全く完成していない。虹彩とはいわゆる目の色がついている部分で、その中心にあるのが瞳孔だ。虹彩が大きくなる、とはこの瞳孔が大きくなることだと読んだ。瞳孔は光を当てられることで広がる、といえば論理的になってしまうのだが非常に身体感覚に基づいた表現だ。そして「近づいて、くる」。なにが。この問いは答えを持たないまま下の句に流れていく。ただ「近づいて」と「くる」の間に打たれた読点がさきほどの「虹彩が大きくなる」も相まってスローモーション的な演出をしている。この圧倒的な無防備感。近づいてくるものによって主体の感情の読みは大きく揺れるだろう。そして一字あいて下の句。なにが近づいてきたのかへの言及は一切ないのだ。(主体のものなのか、違うのかもわからない)首への描写に移る。分かっているのは「五月の通学路」が「香る」、ということだ。五月が通学路に付与するイメージは薄いので、その状況をさす表現なのかもしれない。「香る」とは「映える」のニュアンスなのか、それとも具体的なにおいがするのかは分からない。ただなにやら首への主体の肯定的なイメージが伺える。この首が他者のものであり、その首=持ち主が近づいているのだという読みもあるかもしれない。ただ僕は支持しない。なぜならこの歌の上下で主体の俯瞰度に差があるからだ。上の句の主体の無防備感に対し、下の句には余裕がある。上下の間の一字あけによって場面が切り替わったと考える方が自然な気がする。もっと深く読むなら上の句で近づいてきたなにかが、下の句ではもう存在していないような気さえする。ただそれがなんなのかはわからないままだった。
この近づいてきた「なにか」が分からない限り、この歌の世界は完成しないだろう。読者に想像させるにしても材料が足りない。わからなさを楽しむにしてはその他で魅せる部分が多い。ただこの歌が未完成のものであるとは思わない。ここまで思って、僕は考えることを止めた。おそらく、この「なにか」は作者が世界をフィルターにかけるときにそぎ落とされた部分なのだろう。つまり、作者が描きたい部分ではないのだ。なにかが主体に影響を与えながら近づき、そしてその結果主体が肯定的な感情で首を意識している。首が誰のものか、そして何が近づいてくるかはどうでもよい。だから考えなくてもよい。という意思表示に思えてきた。韻文であるが故の描くものの取捨選択。その結果の世界の欠落を認めるくらいには短歌は自由であると思うし、またそうあってほしい。短歌の懐の深さを再認識した一首だ。
石井大成