鳥居から先には君の未来待つ 私はここでまた待ってるから
秋原春音(東北大学短歌会)(「神様メランコリー」/『東北大短歌第4号』より)
今日、短歌が評価される大きな形として連作がある。この連作というのがとても難しく、未開の部分の多い作品形態だと思う。短歌一首そのものが作品で、さらにそれを集めて作品にする。非常にバランス感覚の必要な営みだ。連作の、連作としての表現は一首一首の表現と同じか、それ以上に気を遣う。そして作ること以上に難しいのはその連作を読むこと、評することだ。歌を評する場としての歌会、歌集を評する場としての批評会は存在するが、連作を連作として読む場は多くない(学生短歌会等でたまに見かけはする)。特に構成面で連作を評価することは少なく、それゆえに日常的に連作を読むことにも(少なくとも僕は)若干苦労する。そして連作を読む場の少なさは作る側にも作用する。何が言いたいのかというと、連作も一首と同じくらい自由な表現であってほしい、ということだ。今回の掲出歌はそんな「連作の構成面での表現」が印象的だった一首。
この歌は12首連作「神様メランコリー」の最後の一首だ。歌の話をする前にこの連作について少し見ていきたい。
真ん中は通らないでね真ん中で手をつなぐだけならいいけどさ
手水舎(ちょうずや)の水凍りつくほど寒く隣の君に寄りかかってみる
(同連作)
この連作の前半は神社を参拝する主体と「君」を描く歌で構成される。どちらかというと主体側にたった親密度の高い描写が多い。鳥居をくぐり、参道を歩き、手水舎で身を清め、参拝する。神社での行動が比較的はっきりとしたストーリーになるように歌が並んでいる。ここまでの印象は神社をテーマとした相聞の連作、といった感じだ。
ところが参拝を終えたあとからこの連作はその雰囲気を変える。
馬墜ちて狐になりぬ崖下の鳥居の中に少し雨降る
あちこちに同じ名前の神社ありそれだけ多く祈りが聞こえる
(同連作)
変化した点が大きく二つ。ひとつは語りかける対象としての「君」の存在が消えること。そしてもうひとつがこれまで具体的な主体の居場所であった神社が、概念的な、あるいは不特定のものとして歌に現れるようになることだ。これまで続いていた神社参拝というストーリーの流れがここで止まる。主体が神社という存在について思いを馳せている、ととれなくもないが、「馬墜ちて」の歌にある「崖下の鳥居」のような妙に具体的な描写も目立つ。なんとなく視点の位置が高くなり読者から距離を取っていく印象がある。そして一度止まったストーリーが、連作の最後から2番目の歌で再び動き出す。
本殿の中を覗いて・・・・・・犯罪者みたいな気持ち抱えてみたい? (同連作)
主体の意識が再び他者へ向く。確かに神社の本殿を覗く行為は、誰に禁じられたわけでもないのに罪悪感を伴う。そしてそれゆえの興奮。共感という点でこれまでの歌で離れた主体と読者の距離を一気に詰めるモチーフである。であるのだが歌全体を覆うこの不穏な感じはなんだろう。おそらく正体はこの歌における主体の位置ではないだろうか。「覗いて」のあとに「・・・・・・」によって意図的に間を作り、また歌自体も疑問系だ。これは主体が「君」に「罪悪感を抱かせる」立場であるという構図に近い。つまり主体は「君」に語りかけていながらも「君」と同列にはいない。連作後半の主体の視点の高さは維持したまま意識だけが「君」に向いているのだ。
そしてこの不穏を湛えたまま掲出歌によりこの連作はひっくり返る。「君」が鳥居を再びくぐるなか、主体は神社に留まり続けるのだ。ここで連作は終わるため、この歌が意味するところは読者に委ねられる。可能性のみで話を進めれば、主体が神主あるいは巫女のような神社側の人物である、という読みもできるだろう。しかし連作前半に提示しそして掲出歌の一首前でわざわざ引き戻した、「君」とともにいる主体、という構図を手放すことの意味は大きい。さらに「君の未来」のスケールを歌に提示することで「待ってる」といいながらもそれは長い別れであるかのようにも魅せる。まるで連作後半からその視点が高くなっていった主体がそのまま天に消えていくようだ。ふと連作前半を見返すと歌のほとんどが主体目線で成っており、「君」発信の行動の描写が存在しないことにも気づく。そもそも連作タイトル「神様メランコリー」とはなんなのか。掲出歌を起点としていくつもの伏線めいたものの存在に気づく。なお面白いのは短歌連作という表現形態を利用し、その結論を提示しない点だろう。
「最後の1ページであなたは驚愕する」的な小説の帯をよく目にする。もちろん小説には小説のできることが、短歌には短歌のできることがある。それを踏まえても短歌連作にはもっともっとできることがあるのではないか。ひょっとすると短歌連作は金鉱脈なのかもしれない。